「人間失格」読了。

 

再読なのだが、久々に太宰治の「人間失格」を読んだ。

第一の手記、第二の手記、第三の手記という三部構成。
第一の手記は幼少時代。主人公の葉蔵は道化を演じていた。

この描写は正直ドキッとした。今の自分がまさにそれだからだ。
面白い事、バカバカしい事を言って周りを笑わせる。
面白い事を言わなければ自分の社会的な価値はなくなってしまうのではないか、
そんな恐怖に怯えながら。

お道化を見抜く竹一のような人間に怯えているのもまた共感出来る。
いつ見破られてしまうのだろうか。恐怖が付きまとう。

第二の手記では堀木という男に酒や政治運動などを教えられ、どんどん堕落の道に。
挙句の果てに女と鎌倉の海で自殺未遂をする(女は死ぬ)。

第三の手記はただひたすら転落人生。
純真無垢な内縁の妻は違う男に犯されてから全て変わってしまった。
酒に溺れ、挙句の果てにはモルヒネ漬けになり脳病院へ。

堀木とやっていたアントとシノニムのゲームはなかなか興味深かった。
罪と罰。

そして最後に「ただ、いっさいは過ぎて行きます」という境地に至る。
何かに怯えていようが、ひたすらぼけっとしていようが、時はただ過ぎて行く。
ただ過ぎて行くだけだ。私も最近自力でその境地に至ったような気がする。

神などいない。
少なくとも、祈りを捧げてそれに応えてくれるような存在などはない。
事象はただ起きるから起きているだけで、
辛い事があろうがそれは神の試練などという大それたものではない。
私は葉蔵のような波乱万丈な人生を送ったわけではないが、そんな境地に自力で達してしまった。

さて、本題に戻るが。
そんなわけで自力でその境地に達してしまったおかげで、
葉蔵の転落人生にはあまり同情も共感も出来なかった。

ただ葉蔵はどうしようもないクズながら、憎みきれない謎の魅力がある。
あとがきのマダムの「神様みたいな子」
このマダムの言葉にはどんな意味が込められていたのか。

そもそも太宰治は何を思ってこの作品を完成させたのか。
そのわずか1ヶ月後に自らの死を遂げたのか。

太宰の他の作品も読む必要がありそうだ。

それにしても、人間の本質的な部分を描写した壮絶かつ陰鬱な作品でありながら、
どことなく喜劇のようなおもしろおかしい雰囲気も感じる。
葉蔵が清々しいほど無様に転落していったからなのか何なのか。